春一番と林芙美子記念館②
最近はあまり買わないようにしている文房具
文房具大好きです、見ると欲しくなります。
使わないかなぁ~と分かっていますが、何かの時に?と
理由をつけて買ってしまいます。
メッセージカード、実物はもっと優しく淡いイメージで屏風がたまりません。
私だったら送られると凄く嬉しいです^^
春ですね、初 鴬の鳴き声
日曜の朝方4時半ごろでしょうか? 鶯の鳴き声
『ホ~ホケキョ』と聞こえてきて、初めは耳を疑いましたが、日が明るくなる頃まで鳴いていました。
周りに木があるので、鳥の囀ずりは聞きますが鶯は初めてでした。
窓を開けて見てみたかったのですが、人を嫌うと聞いたことがあり、耳をすましてそっと春一番を楽しみました。
今回は林芙美子の実生活に入りたいと思います。
記念館で流れていた動画から
ご主人、今で言うイケメンですね。
幾つかの恋を経た芙美子に、画学生だった彼は23歳のときに芙美子と内縁の結婚をします。
誠実な性格だった彼は、妻の執筆活動を支え続けました。
芙美子は作家として大成したのち、母から「今のあなたがいるのは、緑敏さんのおかげ」と言われたそうです。
唯一洋風になっている別棟は、夫のアトリエの為に建てられたもので、川端康成や太宰治など様々な友人が訪れました。
芙美子の集めた工芸品やご主人とのやり取りした手紙が展示されています。
フランスへ行かれた時
フランスから夫にあてた手紙
林芙美子は明治に生まれ、昭和になってからすぐに小説家として活躍した女性です。
昭和には大きな戦争がありましたが、彼女は戦争に怯むことなく創作活動を続けました。戦争が終わってからは更に活躍の幅を広げ、名実ともに日本の女性小説家の第一人者となったのです。
自由奔放な面だけが目立ってしまう芙美子でしたが、
家庭生活も大切にしていました。
夫に支えられながらの文筆生活は彼女にとってもかけがえのないものだったのでしょう。
子どもに恵まれることはありませんでしたが、養子として引き取った泰(たい)を育て、堅実な家庭生活を送っていました。
売れっ子の作家となってからも、仕事を断らず力の限りに書いた芙美子はどこかで無理をしていたのかもしれません。
晩年は心臓を悪くしていたそうですが、タバコやコーヒーを控えることはなく医師の止めるのも聞かず、雑誌社の取材にでかけ体調を崩しあっけなく心臓麻痺でこの世を去ってしまいました。
享年は47歳。あまりに早すぎる死でした。
敷地200~300坪あるでしょうか?お庭に囲まれた屋敷
夫・緑敏さんに支えられて文筆生活を続け、円満な家庭を築いていたのです。
裏庭に周ります
途中で休憩椅子があり、更に登れます
広い庭にも細やかに手を掛けられています。
実子に恵まれなかった分、1943年に生まれた泰ちゃんという男児を養子として引き取り、大切に育てます。
しかし、残念ながら泰ちゃんは母の死から8年後の1959年、列車の中で転倒して頭を打ち亡くなります。
わずか16歳でした。
愛する妻と子供を失った緑敏さん悲しみを乗り越え、
妻の作品の整理保存に努めたのち、1989年に87歳で亡くなりました。
妻を支え続けた緑敏さんは、資料も立派に整理したのち、芙美子の姪姉妹に世話をされて平穏な晩年を過ごしました。
彼が天国で妻子に再会し幸せに過ごしていると思います
この時代の女流作家を見ると、才能は勿論、自分に正直で大胆に生きるたくましさと、それを理解し認め開花させる男性がいたと言う事を改めて感じた記念館でした。
入館料150円...数寄屋作りをベースとして日本の
伝統が随所に生きた作りと…そして、西洋も取り入れ
過ごした家が林芙美子を物語っていました。
お話長くなりました、お付き合い
☕️🍃ご訪問ありがとうございます。
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